熱海市網代・宮町生まれの岡良枝さん(87)は、軍関係施設があった網代へ機銃掃射で飛来した米軍機の姿を、今も鮮明に記憶する。昼間の明るい時間に「ヒューン」という降下音とともに、上空から自宅の目の前に迫ってきた。窓越しだったが「敵に見つからないようすぐに押し入れの奥に身を隠した。機体の翼がすごく大きくて、撃たれたら死ぬんじゃないかと子どもながらにとても怖かった」と、6歳だった1945年の夏を振り返る。
■弾痕残る校舎記憶
海辺に建つ自宅前にあった大きな松の木が、おびえる良枝さんの姿をうまく隠してくれた。格子窓の陰に身をかがめ、屋根すれすれを通過する低空飛行の敵機を小さな目で追った。「今でも、あの不気味な音は耳にこびりついている」。当時すぐそばの旧網代小は機銃掃射を受け、弾痕が残った木造校舎の様子を良枝さんも記憶している。「漁船が狙われ、撃たれて命を落とした漁師の話も聞いた」
■兄2人、海に散る
幸い生き延びることができたが、きょうだいのうち海軍上等機関兵の兄寺田栄夫さんと、その上の兄で陸軍曹長だった内田安正さんの2人を太平洋戦争で亡くした。南方の激戦地へ駆逐艦で赴いた栄夫さん、食物などの物資を運ぶ輸送船で戦地へ向かった安正さんのいずれも、途上で海に散った―と伝え聞く。
共に20代前半と若い命だった。安正さんは父林蔵さん、母せきさんが養子に迎えた関係で、良枝さんにとっては父という存在になる。激戦地へ出征する直前“最期の面会”になるかもしれぬと、広島・呉へ母と一緒に向かった。食堂の2階で対峙(たいじ)した安正さんは、せきさんとろくに目を合わせずに「お母ちゃん。もう日本は終わりだ。でも非国民になるから、絶対に口に出してはいけないよ」と静かに言い含めたという。
■白木の箱に手合わす
終戦後、安正さんの白木の箱が家族の元にやって来た。中身は空っぽで、しばらくして今度は遺族会から良枝さんへ「フィリピンの土」が届けられた。
「結局海の上で亡くなったから、遺骨も何もない」と寂しげに語る良枝さんは、土が入った茶封筒を木箱の中に大切に保管して仏壇に置き、毎日欠かさず手を合わせている。「戦争は何一ついいことはない。絶対にやってはいけない」と、切に平和の尊さを訴える。
