「震えて立ち止まっている暇などない。逃げるだけ。無我夢中だった」―。日本の敗戦が濃厚となった1945年4月から複数回にわたった下田空襲。当時10歳だった下田市東本郷の書道家浅川和夫さん(91)は、爆弾や機銃掃射から逃れた体験を淡々と語った。
■下田空襲計8回
下田市が96年に刊行した「終戦50周年記念誌
海鳴り ―昭和の戦争と下田―」によると、下田空襲は4月12日から終戦2日前の8月13日までの間に計8回あった。犠牲者は0歳から80歳まで計97人。うち24人は10歳に満たない子どもだった。
浅川さんは4人兄弟の長男として生まれた。父は出征し、街中にあった自宅には4歳下の弟と乳飲み子だった妹、母の4人。浅川さんは国民学校に通いながら家で弟の面倒を見て、飯炊きの手伝いをする日々だった。
■戦争の「狂気」
米軍による本土空襲が激しくなる中、下田にも米軍機が飛来した。鳴り響く空襲警報。浅川さんはそのたびに幼い弟の手を引き、自宅近くの防空壕(ごう)に駆け込んだ。
その日は裏の井戸で水をくんでいた。「米軍機がすぐ近くを低空飛行した。操縦士の顔も見え、一瞬目が合った気がした。その飛行機は直後爆弾をバラバラと落として飛び去った」。平然と街を破壊し、人の命を奪う戦争の狂気を思い知った。
別の日には炊飯中に空襲があった。浅川さんは「米を無駄にできない」と釜を背負い、少し離れた防空壕に向かった。航空機の爆音が迫る。通りかかった防空壕から人の手が伸び、中に引き込まれた。直後「バリバリバリ」と機銃掃射の音がした。振り返るとすぐ後ろで砂煙が上がっていた。「狙われていたんだと思い、心底ほっとした」と九死に一生を得た出来事を語った。
■続く問いかけ
浅川さん家族は父を含めて全員戦禍を生き延びたが、浅川さんが通う学校では空襲で亡くなった児童も。東京から疎開してきて交流があった同級生もその一人。「お兄さんと避難した防空壕を襲った爆弾の爆風で死んだ。ショックだった」と言葉を詰まらせた。
度重なる空襲におびえながらも「死んでたまるか」と歯を食いしばった日々。「終戦の日を迎えるたびにあの戦争はなんだったのだろうと考えてしまう」。戦後80余年を経てもなお浅川さんの問いかけは続く。
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太平洋戦争の終結から15日で81年を迎える。「終戦の日」に合わせて、伊豆地区で暮らす戦争体験者に空襲や引き揚げなどの話を聞いた。戦争の悲惨さや平和の尊さを決して忘れることのないよう、貴重な証言を6回にわたって紹介する。
