伊東市大室高原にアトリエを構え、博愛の精神に満ちた独特のフォルム(形態)の作品を数多く制作した彫刻家重岡建治(しげおか・けんじ)さんが2月24日午後7時、市内の病院で死去した。89歳。故人の遺志により、葬儀は家族のみで済ませた。後日、しのぶ会に代えて「伊豆高原五月祭」会期中に数日、アトリエを開放する予定。
数多くの作品の中で、代表作としてまず名前が挙がるのが伊東市制施行30周年を記念して制作されたなぎさ公園のブロンズのモニュメント「家族」。親子3人の家族を5羽のハトが取り囲む。生涯大切にしてきた愛と平和、絆を象徴する作品となっている。この他にも数多くの重岡作品が建つなぎさ公園は、市の名所の一つとなっている。
重岡さんは生涯、画商を入れなかった。北海道から熊本県まで、日本全国に作品が建つ。それらは全て、作品に魅せられた人や団体、企業、自治体から直接依頼を受けて制作したものだった。誰とでも気さくに接する重岡さんの人柄に引かれる人も多かった。
30年以上にわたり、日本オリンピック委員会(JOC)の「JOCスポーツ賞」最優秀賞のトロフィーを制作している。本紙「伊豆賞」の正賞ブロンズ像制作を続けた。
伊豆高原アートフェスティバルや五月祭など、同市の芸術イベントにも積極的に協力した。
■ゆかりの5人悼む 「町じゅう美術館」/「人引きつける」
小野達也伊東市長 長年にわたり本市の芸術文化の発展に多大な貢献をしてくれた。作品は本市のシンボルとして市民や観光客に親しまれ、国内外の多くの人を魅了した。見る人の心を揺さぶり深い感動を与え、時代を超えて人々の心に残り続けるだろう。それを後世に伝えていくのが私たちの使命であり恩返しであると思う。
作品を通してその魂はこれからも私たちと共にあり続けると信じている。謹んで冥福をお祈りする。
池田20世紀美術館長・伊藤康伸さん これほど地元とつながった作家は他にいない。町じゅう重岡さんの美術館のようで奇跡の出来事だ。人間的魅力のなせるものだろう。重岡さんは今秋、本館で個展を計画していた。22日に自宅を訪れた時は、ベッドの中で大変に熱く展示についてしゃべっていた。帰り際に左手で、手をつかまれその力の強かったこと。訃報に接し信じられない思いだ。個展は10月から開催の方向で調整している。
石舟庵会長・高木広一さん 重岡さんは日本の宝だ。15年ほど前に作品を見てもらって弟子入りし、それから重岡作品をいくつも模刻した。作ると分かるが形状や曲面に、通常は思いも寄らない造形を用いている。また抽象的でありながら分かりやすく、ほのぼのした気持ちになる。アトリエで一対一になり指導を受ける時間は至福だった。人柄や生き方も学んだ。素晴らしい作品が残っている。これを散逸させない手だてを考えたい。
元伊東観光協会職員・水口進吾さん 長い付き合いで、重岡さんを応援する有志「建青会」にも入っていた。あの元気さは憧れであり、あまりに惜しい人を亡くした。2015年には一緒にイタリアへ行き、若き日に学んだローマの国立アカデミアを訪ねるなど、思えば親しくさせてもらったのだと思う。今や町じゅうにある重岡作品を、市民は空気のように感じているが、考えてみれば大変なことだ。ぜひともアピールする必要がある。
写真家・武智幹夫さん 60年ほど前からの付き合い。イタリアで勉強中の重岡さんを訪ねて撮影したこともある。下宿先の家族から「ケンジ、ケンジ」とかわいがられていた。どこでも人を引きつけるところは、重岡さんならではだ。彫刻家が一つの作品を生み出す過程を間近に見て、その様子を撮影できて幸せだった。写真をやってきて良かったと思う。これからは重岡さんの世界を自分なりの方法で伝えていきたい。
■重岡作品復興後押し 第二の古里、飯舘村に26点 人のつながり、絆象徴
彫刻家重岡建治さんは晩年、福島県飯舘村へと何度も足を運んだ。村にはブロンズ、木彫などの作品26点に加え、彫刻の原型27点があり、重岡さんは「伊東以外で自分の作品がまとまってあるのは飯舘だけ。第二の古里だと思う」と言って心を寄せた。(下田支社 福島安世)
東日本大震災に伴う原発事故で全村避難を余儀なくされた村が復興に動き出したとき、当時村長だった菅野典雄さんが「絆や愛を表現した重岡さんの作品で復興に向かう心をみせたい」と考え、モニュメント制作を依頼した。
菅野さんは2013年に講演で伊東市を訪れた際、なぎさ公園に寄り「親子がくつろぐベンチのような彫刻」を写真に収めた。作風に引かれ、写真を手がかりに作者にたどりついた。16年以降、村の交流センターや道の駅、小中一貫校など各所に重岡作品が増えていった。「触れる彫刻」を作り続けてきた重岡さんは「作品はどこかしらつながっているから強度が保てる。人も同じ」という思いを込め、菅野さんの依頼に応えた。
20年夏には重岡さんと村をつなぐきっかけとなったなぎさ公園のブロンズ「なぎさ」と同じモチーフの「ブロンズと遊ぶ」が、道の駅に隣接する「ふかや風の子広場」でお披露目された。重岡さんは「この村で作品が生きていくことをうれしく思う」と語った。
飯舘村との交流を機に、重岡さんは作品のデザインにハート形をよく取り入れるようになった。「丁寧に」「心を込めて」といった意味を持つ福島の方言で、村の基本理念にもなっている「までい」を気に入り、ハート形をその象徴にした。
村の道の駅には重岡さんの座右の銘を刻んだ石碑も建つ。尊敬するロダンの言葉「芸術家である前に職人であれ」を選んだ。村を訪れる際にはブロンズを磨く道具を持参し、メンテナンスに励んだ。最後まで「職人」を貫いた。
■「天才でなく努力家」 彫刻一筋の歩み追想
2月24日に89歳で亡くなった重岡建治さんは、高校生の時、京都の美術館でともに文化勲章受章者の沢田政広と円鍔(えんつば)勝三の木彫作品を見て、彫刻家になる決心をした。円鍔の内弟子になって彫刻のいろはを学ぶ。その後イタリアに渡り、エミリオ・グレコに師事した。
「とにかく彫刻一筋だった」と弟の重岡中山さんは振り返る。元気なころは、午前3時ごろからノミを手にしていたという。どこに出かけても時間があれば美術館に足を運び、彫刻作品を鑑賞した。美術史の研究にも熱心に取り組んだ。
どんな人とも公平に付き合い、頼まれ事を断らなかった。長女の恵美里さんは「無理難題を突きつけられて成長していったと思う」と話す。専門外の看板やプログラムの表紙を頼まれても、二つ返事で引き受けた。「表紙用のデッサンを一つ描くために、千枚以上下描きをしていた。天才ではなかったかもしれないが、その努力が彫刻に生かされたのだと思う」と懐かしそうに語った。
彫刻にはいちずだったが、他のことには無頓着だった。ネクタイの細い方を長く結んで平気で出かけたり、立派な靴を履いて出かけてサンダルで帰ってきたり。そんなところも含めて、多くの人に愛された。「出会いが重なり、そのご縁でこれまでやってこられたのだと思う」と中山さんは語った。